2020年教育改革とは

2020年教育改革とは    

 

 

    1. 教育改革の変遷

    —大学入試制度

    —ゆとり教育

    —これからの教育の在り方

 

  1. 生きる力」とは—教師問題—成長は全自動
  1. これからの学校の授業形態—教師のメンタリティー—どうするのが良いのか?
  1. アクティブラーニングとは

—体験に基づいた学習

—知識以外に身につくもの

 

  1. 小学校4年生からの必修科目、外国語としての英語

—英語力の重要性

—小学4年生から英語を教えることに意味があるか?
—小学4年生で必修になる英語をどう評価するか?

 

  1. 小学校で4技能(R=読む・W=書く・S=話す・L=聞く)をどう教えるか

—外国語活動としての英語

—小学校からの外国語活動

—小学生を対象とする英語教授法

 

 

  1. 全教科における記述式問題をどう教えるのか

—記述式問題

—「あなたはどう考えますか?」

 

 

  1. 海外の教育モデル—アメリカ合衆国の「クリティカルシンキング」
    —フィンランド「個の創造力を伸ばす教育」
    —フランス「哲学の必要性」—バカロレア

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2020年教育改革とは

  1. 教育改革の変遷

 

—大学入試制度

2020年、大学入試制度が大きく変わります。これまで大学入試は1979〜1989年まで大学共通一次学力試験と呼ばれる主要教科5教科7科目から構成される試験と、1990年以降は大学入学者選抜入試センター試験と呼ばれるそれぞれの教科の知識量を問われる試験によって入れる大学への合否が決まっていました。それまでの入試改革により「共通一次」は「センター試験」に変わってきています。ところが、主要5教科の知識レベルと得点により入れる大学が決まるというシステム自体はこれまで何十年も変わることはありませんでした。

 

では本当にこの何十年もの間、教育体制はまったく変化することなくここまで来てしまったかのでしょうか?歴史を振り返ってみると、案外そういう訳でもなく、「詰め込み教育」と言われる知識偏重型教育構造を改革するために、2002年度からは「ゆとり教育」という制度が取り入れられるようになりました。

 

具体的にどのような取り組みがされてきたかと言うと、知識偏重型教育から思考力を鍛える学習に重きを置く経験重視型の教育を方針として掲げ、学習時間や学習の内容を減らしてゆとりのある学校を目指すようになりました。
ところが、このゆとり教育を始めたわずか2年後の2004年にOECD(経済協力開発機構)による国際的な生徒の学習到達度調査で日本の点数低下が問題となったのを機とし、2007年には全国的に学力・学習状況調査が始まり、2008年に学習指導要領の改定が行われ、学校の授業時数を増やしました。そして、2011年—2013年にかけて、学習指導要領の完全施行が行われました。マスコミはこの流れを「脱ゆとり教育」と呼んでいるようです。

学習指導要領の流れが大きく変わったのは、我が家の息子が小学2年生の頃だったのを良く覚えています。わたしたちが2005年にアメリカから住居を日本に移したとき、日本の学校はゆとり教育の真っ只中でした。授業時数はわたしたちが小学生の頃に比べて圧倒的に少なくなっており、具体的には小学校で年間210時間、中学では385時間削減されていたということで、宿題は出ないし学校での学習時間も少ない。でも教科書で教える内容なあまり大差がないように見受けられたので、学習内容が変わってないのに、授業時数だけ減らしてしまって大丈夫なのだろうかという懸念を抱いていました。

 

—ゆとり教育
「ゆとり教育」は1980年から施行された学習指導要領に基づいた教育方針で、新学力観に基づく教育、また「生きる力」に重きを置く教育であると定義されているようです。「新学力観」とは1989年に改定された学習指導要領に採用された学力観のことで、変化の激しい時代に対応できるよう、児童・生徒の思考力や問題解決能力を高め、個々が持つ個性を重視して行くことを目的とした教育観を指して言います。

「ゆとり教育」が始まった背景や意図を読み取ると、時代の流れや変化に適応できる人を育てて行こうではないかという理念に基づいているようです。そう考えると、もくろみは決して間違っていなかったと思われます。では何が上手くいかない原因となったのでしょうか?それは政府の取り組みがいつも外側だけを変えるだけで、中身をなおざりにしているからであると感じます。客観的に教育改革の変遷を見ていると、時代の背景としてなんらかの社会問題が発生し、それに対して講じる対策が常にバンドエイド的な対処法で、問題の根本解決には取り組んでいない気がするのです。

外側の構造だけをちょこちょこっといじって、上手くいかなくなると踵を返して後戻りしています。外側の体制を変えるなら、中身もそれに見合って大きく変える必要がありますし、指針を打ち出し、計画が功を奏すまで腰を据えて取り組んでいかなければなりません。諸外国のモノマネをして、いいところをあちこちに申し訳程度に取り入れても全体が上手く回る訳がありません。今こそ本腰で、これからますます変化が激しくなって行く時代に立ち向かえる力を備えた人を育てていく体制を作らなければなりません。

 

繰り返しになりますが、変化の激しい時代に対応できる人を育てていこうとする教育観や目的は、昨今始まった訳ではなく、すでに1970年代の高度成長期の頃から、教育はただの知識の詰め込みではいけない、時代の変化に対応できる思考力や問題解決能力、個性、はたまた人間力を高めていくことが重要であるとし、そのための取り組みがされ続けられてきています。「変化の激しい時代に対応できる人間を育てるための教育体制を整える」ことは今の日本の緊急課題と言えるでしょう。

 

—これからの教育の在り方

「教育改革」の歴史を振り返ると、ほぼ半世紀に渡って取り組みがなされてきたにも関わらず、相変わらず「良い大学」に入って「良い会社」で働くことが良しとされる価値観が根強く社会通念としてはびこっているように見受けられます。その大きな原因に一つとして、「大学入試制度」が全く変わって来なかったからであるという事実がここに来てやっと大きくクローズアップされ、2020年から大学入試が本格的に変わっていくという流れになっています。

 

2020年教育改革は、時代の有り様がこれまでなかったほどに本当に大きく急激に変わっていくこれからの時代に、この時代に生きて行く人たちがいかに力強く生き抜いていくか、どんな環境におかれてもいかに「生きる力」を持ち、発揮できるかということに焦点が当てられています。

 

  1. 「生きる力」とは文部科学省は、「生きる力」=知・徳・体のバランスの取れた力とし、変化の激しいこれからの社会を生きるために次の3つの要素を掲げています。1つ目は「確かな学力」、2つ目は「豊かな人間性」、3つ目は「健康・体力」。文部科学省はこれら3つを教育目標として掲げ、これらをバランス良く育てることが大切であると言っています。

本来、子どもというのは好奇心の塊です。赤ちゃんを見ていると、手足をバタバタさせて、まわりの動きをよく見てます。少し大きくなってハイハイを始めると、あちらこちらに行っては探検します。そして興味があるものをじっと見つめ、触り、取って、口に入れて確かめます。

 

—成長は全自動
その好奇心はずっと持ち続けるものです。自分で探して、自分で見つける。これは本来人間が生まれ持った学習機能です。興味を持ち、探求し、答えを見つける。もう赤ちゃんのころから誰から教わることなくごく自然にやっていることで、人間の進化・成長は自然界と同じように全自動なのです。

 

でもある年齢に到達すると、学校という箱の中に入れ、「何も知らない」という前提でいろいろ教え込みます。しかし、人は誰一人同じであるということはなく、一人一人が全く異なった存在であるため、またそれぞれに発達の段階というのがあるために、学校で教え込まれることに対して早く理解する子もいれば、時間がかかる子も出てきます。

 

それなのに、今学校で取られている学習体系は一斉授業で、教師が一方的に自分の持つ(専門)知識を生徒に与えるという形態になっています。それぞれの学習能力や理解力に段階的に違いがあるという事実を全く無視し、一斉に同じ内容の知識を一斉に与えることが全体に対して平等であり、公平であるという信念体系の中で授業が行われているという訳です。

 

このように個々の違いを無視し、「鋳型」に入れて抜いて行くというような教育体制にこれまで疑問を抱く余地もなく、みんなが同じようにできないといけないという価値観がはびこっています。まわりを見回しても、そういう鋳型教育に適応できない子の気持ちや言い分を無視して、とにかく知識を身につけるための勉強をし、成績を上げろと塾に入れてみたり、成績が上がらない子供をガミガミと叱る親が後を断ちません。

—教師問題
教師に至っては、未だに定期試験や模試で高得点を上げる児童・生徒が頭の良い子だという価値観を持っている人が大多数を占めているように見受けられます。現役高校教師として正直に告白すると、定期試験を自分がそれまで教えたことがどれほど生徒に定着しているかといった自己評価として反省の材料のテストというよりも、生徒がどれくらい勉強を積み重ねたかを診断するものであるという価値観をずっと根強く持っていました。

しかし、生徒がそれぞれ違った存在で、それぞれの習得能力に個人差があるという観点から見ると、現在の評価法はかなり歪んでいるし間違っていると感じられるようになりました。今では、定期試験は自分がそれまで教えてきたことを生徒がどれほど理解できるレベルに落とし込んで授業をしたかの判断基準として、また自分の教授法を省みる材料として見ることにしています。そして、次の学期に向けてどのような授業の組み立てをしたら、もっと生徒の興味や関心を引き出せるようになるかの課題設定の基準として使うようにしています。

長年の習慣で、同じような授業形態で同じ内容をずっと同じやり方で授業を続けるのははっきり言って楽です。授業内容がどれほど生徒に定着するかと日々考えるよりも「成績が悪いのは生徒が勉強をしないからだ」「生徒がもっとやる気を出してやれば成績があがるだろうに」と教育の在り方や結果を常に外側の責任である、つまり生徒側の能力に原因があるのだと責任の有り様と自分以外に置くことはとても安易で楽なことです。そして、そのように責任転嫁している教師は割合多いような気がします。

しかしこれからは教育を児童・生徒を取り巻く教師や親側の大人たちが自分の有り様、在り方として捉えて行くように考え方を変えていかないと、現場は何も変わっていかないような気がします。この考え方の部分に働きかけられるよう今の日本の教育体制について問題意識を持つ者同士で啓発・啓蒙していきたいと思います。

3. これからの学校の授業形態

 

「2020年に大学入試制度が大きく変わることに際して、学校の在り方、授業携帯は変わってきているのか?」という疑問があると思います。答えは、「変わろうとする努力は見える」というところです。現在わたしが勤務する自治体ではさかんに研究授業やそれに対する取り組みが行われています。研究会は毎月のように地方自治体の各地で行われています。「激しく変化していく時代に乗り遅れないように教育体制も変化しなくてはいけない」という息遣いは感じられます。

 

ただし、「変わりたくない!」「変わる必要がなぜあるのだ!」と旧体制がこれまでうまく行ってたのだから従来の知識詰め込み方式が間違っている訳ないじゃないかという反対の声もまだまだ根強く残っています。

 

—教師のメンタリティー

「2020年からの教師問題」(ベスト新書)で石川一郎氏はこのように述べています。「2020年型教育を実施する上での問題点は、マニュアルが乏しいことや先例がないことではなく、教師のメンタリティである」とした上で、具体的問題点を3つ上げています。一つは、教師なのに主役感を持ってしまう。二つ目は、生徒の「モヤ感」を許容できない。三つ目は、知的好奇心を忘れている。

 

現場にいると確かにこれらの3つの問題点を抱えている教師は多くいるように思います。「自分が生徒をOO大学に合格させた」という承認欲求の強い教師は多くいると思います。わたしでもAO入試にチャレンジしている生徒が「入試が英語での面接なので、指導をお願いしたい」と言われ、その生徒を夏休みの間、英語での面接試験に対応できるよう個別に指導し、「先生のおかげで合格できた」との報告を受けた時、また英検指導した後に合格報告を受け「先生がライティング指導をしてくれたおかげで英検に合格できた」と言われたときには、「自分が〜させた」という感覚になりました。

教師が主役感を持ってしまうことにどのような問題があるのか?それは生徒が「主体的」に学ぶ機会を奪うことになるからです。教師が主役感を持ってしまうと、教師が生徒に、こうしてああしてと指示し、生徒は教師の指示を待つという関係性が出来上がってしまいます。そうすると生徒が「主体的」に学ぶ機会を奪ってしまうことになります。

 

このように現場を見てみると「OO大学に合格するために」「英検XX級に合格するために」が目的になってしまっており、その結果を出すために教師が生徒に指示を出すという構図ができあがってしまっています。そして、その関係性がまだまだ根強く現場には残っているということです。

 

—どうするのが良いのか?
教師は「自分が生徒に教えてやるのだ」「自分が生徒を導くのだ」という考えを一切手放す必要があると感じています。知識をより多く持つことが優れているという判断基準を捨てなければなりません。知識が多くても、知識をより多く身につけ、知識がいかにたくさん身についているかを問うテストや試験があって、それを決められた時間内にいかに早く回答できるか、できたかで人の優劣は決まらないのだと言うことを分かる必要があります。

 

実際、有名大学を卒業し、企業に就職したという人の中には、就職先で最新式コピー機の使い方が分からずにコピー機の前で立ち往生している新入社員がいるとか、にもかかわらず、自分はできる人間だとのプライドが高すぎて分からないことを他の人に聞けないという話も聞きます。ある居酒屋さんでは「鍋が沸騰しますから見ててくださいね」とお客さんである学生さんに声をかけると、鍋が沸騰しているのに蓋を取るとか、火を小さくするとかせず、本当にただ見ているだけと言った冗談のような本当の話も聞きます。

知識はあっても、知識に基づいた体験が圧倒的に少ない、または全くないのではないかと感じさせられます。頭と体が全く繋がっていないのではないかという現象があちらこちらで発生しているように感じます。先ほどの例で言えば、鍋が吹き立っていれば、蓋を取って火を弱くするというように、状況に気がつき、考え、対応するということができない若者が急増しているように見えるのです。そのような現状を踏まえて、文部科学省でも「生きる力」を育むことを学習指導要領に掲げ、その中心思想の一つに「確かな学力」を挙げた上で、「基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより様々な問題に積極的に対応する」力を身につけるべきだと述べているのでしょう。

ただ物を知っていると言った知識だけの詰め込みは無意味です。これからは徹底的に体験に基づいた学習を学校教育に中に取り入れていく必要があると感じています。実際に生活の中で使えるのでなければ、知識など何の役にも立たないのは明らかです。いくら算数の中で分数や割合を学んだとしても、実際の生活の中で¥10,000の商品が2割引になっていたら、実際の値段はもとの値段の8掛けだから(¥10,000X0.8=)¥8,000であるということが瞬時に分からなければ、つまり(¥10,000X0.2=¥2,000 / ¥10,000ー¥2,000=¥8,000)というようなまどろっこしい計算式を学校で教わる通りに頭の中で展開させているのであれば、学校の勉強は本当に無意味だと思うのです。

4. アクティブ・ラーニングとは
—体験に基づいた学習

ではどうやったら「体験に基づいた学習を学校教育に取り入れる」ことができるのでしょうか?

教師は生徒が自分で考える「問い」ができるようになることがこれからの教育の鍵を握っているように思います。最近、生徒の探究心を追求するためのメソッドとして「アクティブ・ラーンング」を授業に取り入れる動きが盛んになっています。
アクティブ・ラーニングを文字通り解釈すると「アクティブに(活発に)」「ラーニング(学ぶ)」という意味に捉え、アクティブ・ラーニングを校外学習であるとか、グループ学習であると考えている教員が多くいます。実際、わたしの身の回りの教員(50代)には「アクティブ・ラーニングを授業に取り入れるようにさかんに言われるけれど、グループ学習が従来の授業の在り方に取って替わるのはおかしい気がする」と述べている人がほとんどです。

 

「アクティブ」を活動と解釈することによって、授業をグループごとの活動を通して行うことがアクティブ・ラーニングであると短絡的に解釈し、誤解しているケースがほとんどであると思われます。実際は「アクティブ」は「能動的」と解釈されるべきで、アクティブ・ラーニングは能動的学習のことを言うもので、身体をアクティブ(活発)に動かすかどうかが問われているのではありません。

そもそも日本でアクティブ・ラーニングという言葉が使われ始めたのは大学教育からで、2012年中教審(文部科学省中央教育審議会)の答申の中で、「従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である」と述べています。

 

つまり、アクティブ・ラーニングとは学習の方法であり、中身のことを言っているのではありません。アクティブ・ラーニングは始め、大学教育の中で取り入れられた学習形態でしたが、2014年には学習指導要領にアクティブ・ラーニングが記載され、小中高で「何を学ぶか」だけでなく「いかに学ぶか」という学びの在り方までもが取り上げられるようになりました。そして中教審の答申の中で、高校におけるアクティブ・ラーニングについて言及され、「高等学校教育については、課題の発見と解決に向けた主体的・協働的な学習・指導方法であるアクティブ・ラーニングの飛躍的充実を図る」と述べられています。

 

アクティブ・ラーニングの定義として、京都大学の溝上慎一教授は「一方的知識伝達型講義を聴くという受動的学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う」と述べています。
—知識以外に身につくもの
では、アクティブ・ラーニングを授業の中に取り入れて行ったら、知識以外の何が身についていくのでしょうか。

 

既存の知識は、頭の中に詰め込まなくてもコンピューターの登場やAIの発達によりいくらでも手に入れられるようになってきました。これからの時代に求められるのは知識を使って新たな問題を発見し、それを解決する能力(ちから)であり、またこれまでなかったような新しい知識を想像する力です。

 

アクティブ・ラーニングで身につける力とは、知識の活用力である「思考力・判断力・表現力」であり、「主体性・多様性・協働性」なども含まれています。協働して答えを見つけたり、新しいことを創造する力を育てるのがアクティブ・ラーニングです。

 

実際にこのアクティブ・ラーニングは全国各地の小・中・高で取り組みがされており、わたしが勤務していた甲府第一高等学校では、文部科学省よりSGH(スーパー・グローバル・ハイスクール)の研究指定校として、ここ数年生徒による研究プロジェクトが進められています。

例えば、わたしが担当した研究班では、過疎化地域の深刻な問題となっている「空き家」についての研究に取り組み、過疎化地域の空き家問題の原因を究明し、この空き家をいかに地域興しのために活用できるか、また過疎化をどのようにしたら食い止められるかの研究を1年間かけて行い、年度末には文科省や県内全域の学校を招いて研究成果発表を行いました。

これが従来の知識詰め込み型学習にとどまっていたなら、公民の教科として「現代の地方自治体では核家族化による過疎化が深刻化し、後継のいない住宅は空き家になっている。こういった空き家の管理に自治体は頭を悩ませている。」というような「知識」が脳をかすめるだけで、その深刻な問題について自分が何ができるかとか、地域社会の一員としてこの問題にどのように取り組み、貢献できるかとまでは考えが及ばないでしょう。

 

このような「問題解決学習」は生徒が数時間かけて1つの課題に取り組むもので、「探究型」または「PBL(=Project Based Learning)」とも呼ばれています。実際に社会で起きている問題に対して、生徒がグループで問題を取り上げ、その問題の解決策を考えて発表するのがこの探究型アクティブ・ラーニングです。この学習法の利点は、生徒が協働することによって考え、判断し、表現する力を身につけることができるところにあります。

アクティブ・ラーニングを考察してみると、そんなに難しいことが求められている訳ではないことが分かります。これまでのスクール形式授業では、教師が一方的に話し、生徒はただ聞きながら(あるいは聞いたふりをしながら)板書をノートに写したり、教師の言うことをメモに取ったりというスタイルでした。この状態はただの作業になっているだけで、脳みそを全く働かせていない状態になっています。

アクティブ・ラーニングが能動的学習(=脳働的学習)スタイルであるなら、身体がたとえ動いていないとしても脳が働いている状態にする工夫が施された授業を考えればいいのです。むしろ、特別なプログラムを考えるよりも、教師が日々の授業の中でいかに生徒の脳を働かせることができるかを研究し、実践していくことがアクティブ・ラーニングを推し進める第一歩なのではないでしょうか。

息子が本を読んでいるとき、分からない言葉に出会い聞いてくることがあります。答えがすぐ出てくる今の情報社会の便利さに慣れている息子は自分で調べるとか探求してみるという訓練が必要なんだなと感じています。従って、質問されても即答はせずに「どういう意味だと思う?」とか「グーグル先生に聞いてみよっか?」と自分で学ぶことを促す質問を逆にしたりします。とにかく自分の脳みそを使うための質問を返すことに徹しています。こういうスタイルなら家の中だけじゃなく、学校の現場でもすぐに実践できますよね!

 

  5. 小学校4年生からの必修科目、外国語としての英語

 

ー英語力の重要性
文部科学省による「グローバル化に対応した英語教育改革の五つの提言」中の「グローバル化の進展の中での英語力の重要性」の項目には、社会の急速なグローバル化の進展の中で、英語力の一層の充実は我が国にとって極めて重要な問題。これからは、国民一人一人にとって、異文化理解や異文化コミュニケーションはますます重要になる。その際に、国際共通語である英語力の向上は日本の将来にとって不可欠であり、アジアの中でトップクラスの英語力を目指すべきである。今後の英語教育改革において、その基礎的・基本的な知識・技能とそれらを活用して主体的に課題を解決するために必要な思考力・判断力・表現力等を育成することは、児童生徒の将来的な可能性の広がりのために欠かせない。」とあります。
その上で、「小学校の取組み」については音声を中心に体験的に理解を深めることは、高学年よりも、小学校中学年の児童の発達段階により適していると考えられる」とあります。それにも関わらず、英語を教える専門教師や英語圏から英語指導講師をその目的のために採用するという動きはありません。この目的のために文部科学省や地方自治体の教育委員会が取り組んでいることは、教員英検準1級以上、またはTOEFULテスト800点以上の資格を持つ教員を優先的に採用する、あるいはこれらの資格を取得できるよう教員の英語力を向上させる必要があるにとどめています。

「将来は英語が必要だ」と明言しながら、その目標を到達するための手段や方法を揃ようとはしてないように見受けられます。英語を指導する立場にいる現場の教師の英語指導力が向上すべきだ、資格を持ってる人がいれば優先的に先生にしてあげてもいいですよと、上から目線で、現場にいるお前らでなんとかしろ的な立場を取り続けているような感じがします。文部科学省は国民が英語を習得する必要があるのだと本気で考え、その状態になるべく真剣に目標を達成するつもりがあるのでしょうか。実際に行われている内容を見ていると、その気はさらさらないんじゃないかと感じさせられます。提言はまともに聞こえるのですが、それに取り組む姿勢は、提言を裏付けるコミットメントに欠けているような気がするのはわたしだけなのでしょうか。

 

  小学4年生から英語を教えることに意味があるか?

文科省としては、英語を話せる日本人を一人でも多く排出したいというのが狙いなのかも知れませんが、そもそも現行の中学での英語の授業数は週たったの4時間で、年間に換算するとだいたい120時間にしかなりません。これを日数に換算すると1年のうちのたったの5日間なのです。さて、1年間にたった5日間の間、英語圏に留学したとして英語がペラペラになるだろうかと考えていただきたいと思います。

 

留学制度を活用して半年、もしくは1年以上英語圏での生活を体験しなければ、どんなに頑張っても日本にいながらにして、授業で英語を必須として頑張って教えたところで、現実問題として国民の大半が話せるようになるのだろうかという疑問が残ります。実際、中学生から英語が必修科目となり、全中学生が英語を学んでいますが、流暢な英語を話す生徒は帰国生徒でない限りいないのではないでしょうか。英語を学ぶ年齢を下げたら英語でコミュニケーションを図れるようになる人が増えるという考えは短絡的であるように思います。

我が家の息子は父親がアメリカ人で現在地元の日本の中学校に通っていますが、「英語は嫌い」だとはっきり言います。お父さんがアメリカ人で、家での会話はこの中学生の子を除いてほぼ英語で行われています。映画を観るときも英語バージョンをみます。英語の理解はだいたい出来ているようです。ただアウトプットが難しいようです。この息子が「英語は嫌い」と言います。「英語はコミュニケーションのツールだよ?おばあちゃんや親戚の人(アメリカの)と話せるのは楽しいじゃない?」と言うと、「先生が嫌い。授業がつまらない」と言います。

英語がコミュニケーションツールなのに、授業の形にしてやれ文法がとか規則がとか始めるから面白くなくなってしまうのではないかと息子がこう言う理由を分析しています。この授業の形を小学校に持って行ってしまったら、「ますます英語嫌いを大勢作ってしまうことにならないだろうか?」そんなことを心配してしまいます。

小学4年生で必修になる英語をどう評価するか?

小学4年生の英語が必修になる。ということは、国語、算数、理科、社会のように到達目標があって、そこに到達しているかどうかが評価されるようになるということでもあります。現実的にこれまで月に1度か2度あった「英語で遊ぼう」タイプの楽しみとしてあった英語活動が2020年以降、小学校の授業の中でどのように教えどのように評価していくのだろうかという疑問がわいてきます。

 

第二外国語としての語学活動はどの国も大抵中学生以降になってから行われるもので、日本も従来は中学になってから第二外国語としての英語の学習が始まっています。そして、中学からは英語を教えられる専門教科の教師がいます。小学生のときは学級担任がほぼすべての科目を教えます。しかし、中学になるとそれぞれの教科に専門的に教える教師がいます。

中学になってからの英語の学習方法は単語を覚えたり文法を覚えたりするもので、実際に英語圏に行って使えるようになるレベルの語学習得のスタイルとはかなりかけ離れているように思います。教科書の内容は日常会話をベースにしたセッティングが意識されて構成されていますが、その習った英語表現を日常の生活の中で使いこなし、落とし込むという機会が圧倒的に少ないのが今の日本の英語教育の現状です。

 

日本の文化に関心を持ち、日本に実際に住むこと(体験すること)で日本語を学び文化に触れたいと日本政府が提供するJETプログラム(外国語指導講師召喚プログラム)を利用して日本に滞在しているイギリスの青年は今盛んに日本語を勉強している。彼の学習法は、《日本語の日常使われる単語を覚える→実際に職場にいる日本人と覚えた単語や表現を使って会話する》という公式になっている。従って、彼の日本語の上達は目を見張るものがあります。

 

外国語の習得は《ターゲット言語の単語・表現を覚える→実際に使って会話(コミュニケーションを図り)し、自分の言語活動の中に落とし込む》という公式を辿るようになっています。

 

文科省のこの改革の意図はこれまで単に単語や文法を覚えるだけの英語だったものを、実際に英語圏で生活している人と話す、英語圏に行った時に使える英語に変えたいというものであると推測します。しかし、これを小学4年生から他の教科・科目と同様に「教える」ことになるとしたら、果たしてその意図がうまく機能するのかどうかが疑わしいところです。そもそも教科としての英語を小学4年生から「教える」ことになるとしたら、どのような評価基準を設け、どのような評価をつけるようになるかというところにも大きな疑問が残ります。
「話せる能力」というレベルで評価するのか、その場合、英語を専門教科とする教師不在の小学校でどう評価するのか。あるいは現在中学で行われている通り、単語を覚え、文法の用法を暗記して書けたり、言えたり、読めたり、聞けたりするようになるかどうかによって評価するとしたら、やはり英語教師不在の小学校で適切な評価ができるのかどうか。
それではどのようにしたら小学校で言語活動としての英語を教えられるようになるのでしょうか。当然外国語としての英語を教えられる講師を大量に採用して行くということではないのでしょうか。言語活動ができるかできないかをどうやって評価するのでしょうか。英語を教えていかなければならなくなる小学校の教諭が英語を話せない教諭であるとしたら、どのように英語を教え、英語を使った言語活動ができているかできていないかをどういう方法で評価するのでしょうか。小学校の英語を教えるためのルーブリック(注1)はどう立てるのでしょうか。ルーブリックに沿った評価をどのようにして行くのでしょうか。疑問は残るばかりです。

  • ルーブリック=ブリック(Rubric) とは、学習到達度を示す評価基準を観点と尺度からなる表として示したものである。

 

 

 

6. 小学校で4技能(R=読む・W=書く・S=話す・L=聞く)をどう教えるか

—外国語活動としての英語
現在の小学校の外国語活動では「コミュニケーション能力の素地を養う」ことが主な目標とされており、「聞くこと」と「話すこと」を重視した構成にとどまっており、「読むこと」「書くこと」にはあまり重きを置かれていないようです。

外国語活動としての英語の位置付けは、あくまで「児童は英語学習に望むのではなく、あくまで“英語に慣れ親しむ”ことを目的として、英語学習に取り組めば良いのである」というものにとどめられています。
—小学校からの外国語活動
ところが2020年教育改革を機に、小学校からの外国語活動が大きく変わっていきます。世の中のグローバル化がいよいよ進展し、日本国内で働く外国人が2016年には108万人に増加し(2008年49万人比)、海外で暮らす日本人は2016年には134万人(2004年96万人比)います。(出典:厚労省「外国人雇用状況調査」、外務省「海外在留邦人調査統計」
多様な文化や言語を持った人たちと一緒に働くようになる時代がすでに到来しつつある今の時代を背景とし、求められる英語力も変わってきています。

小学3・4年生では年間35時間(週1時間程度)の授業数が割り当てられ、活動は「英語の音声やリズムに慣れ親しむ」「言葉としてのおもしろさや豊かさに気づく」「聞く・話すことの言語活動」などが目当てとされています。

小学5・6年生になると年間70時間(小学3・4年生時の倍で週2時間程度)の授業時数があり、成績評価が取り入れられるようになります。それまでの慣れ親しむ英語から成績評価対象の科目へと変化します。そして授業の中には「活字体の大文字、小文字」「文および文構造の一部」「聞く、話す+文字指導(読む、書く)の導入」が取り入れられていくようになります。

つまり、これまでは“慣れ親しむ”にとどまっていた英語が、小学5・6年生になると成績評価の対象となるとともに、「読む」「書く」「聞く」「話す」の4技能を取り入れた授業へと変化していくことになるのです。

 

—小学生を対象とする英語教授法

英語の4技能「読む」「書く」「聞く」「話す」を小学生の段階から教えることになるということについて、小学校の学級担任が他の算数や国語や理科とともに教えることができるかどうかという疑問や懸念が浮かび上がってくると思います。現存の小学校教師の中で、大学在学中、英語教授法を学んできた人はほとんどいないはずだからというのが1つの理由です。もう1つは2020年教育改革で、小学校5・6年生から英語が必修科目になるというのに、現行の大学で英語を1つの教科として教えることが教職課程に組み込まれていないらしいというところです(下表『教員免許状取得に必要な科目の内訳』参考)。

 

 

この表に示されるように、教科に関する科目の中に英語は含まれておらず、「その他の科目」として「外国語コミュニケーション」が入っています。文部科学省が掲げる「教職課程等における外国語活動の取り扱い」では「小学校教諭の教職課程等における外国語活動の取扱いについて」(20初教職第24号、教職員課長・教育過程課長通知)の項で「小学校教諭の教職課程においては、外国語活動に関する指導法を「教職に関する科目」に準ずる科目として、「教科又は教職に関する科目」の中に位置付けた上で、開設することが望まれる」とあります。

このように小学5・6年から評価される科目としての英語の教授法は、まだ大学においては教職にかんする科目に「準ずる」科目という位置づけで、それぞれの教職課程を開設する大学への外国語活動に関する指導法も「開設することが望まれる」にとどまっているのです。

 

言語活動に重要な4技能「読む」「書く」「聞く」「話す」の指導は、それを評価する立場におかれている人なら尚のこと、ネイティブレベルか極めてそれに近い能力を持つ人でなければ教えることはとても難しいのではないかと思われます。

文部科学省がねらいとする外国語としての英語を習得する最終目標は、高校において英語の授業は英語で行われることを基本とし、「話す」「書く」を中心に発信力を強化し、スピーチ、プレゼンテーション、ディベート、ディスカッションを行うとあります。

 

文部科学省が最終目標として定めている英語能力は、実際に英語圏であるアメリカの高校の授業で普通に行われている授業スタイルです。彼らは24時間英語を使って学ぶ環境下にある生徒らですが、日本に在住し、英語の授業のときだけ英語を使うことが求められる環境下において、アメリカで行われているような授業スタイルを日本で実際に行うことが可能なのかどうか、可能であることを前提として目標であるなら、「読む」「書く」「聞く」「話す」の4技能を教える小学5・6年生の言語活動を教える教職員の教授法の取組みはこれでいいのだろうかと思います。文部科学省が現場に求める目標と取組みにとても大きな乖離があるように感じます。

 

我が家の事例を取り上げてみると、上の息子たちが英語習得していった過程は、まず24時間英語を使う環境下にいたこと。また、学校においての言語活動は常にネイティブと生活を共にし、遊びや活動を通して文化や習わしを体得していったこと。そして、「読む」「書く」前に徹底的に「聞く」環境下の中、英語の音声学を「書く」以前に取り組んだこと、などがあります。

 

英語を学ぶ上で彼らは、英語の音声・発音を徹底的に学習し、繰り返します。それからアルファベットを学んで行きました。「読む」「書く」「聞く」「話す」の4技能を効果的に学び取ってもらうには同じ過程を取ることが望ましいと思います。

 

小学校で4技能(R=読み・W=書き・S=コミュニケーション・L=聞き取り)を教えることが明らかであるなら、実際にどのように人が言語を習得するかの過程を分析し、その過程を取り入れた授業作りができるように教える側のスキルを向上させる必要があります。

 

 

 

  1. 記述式問題をどう教えるか?

 

—記述式問題

「2020年からの教師問題」(ベスト新書,石川一郎著)の表紙帯にこのような記述があります。「あなたの学校の先生はこの問題、教えられますか?【問】もし、あなたがザビエルだったとしたら、布教のために何をしますか?具体的な根拠とともに400字以内で説明しなさい。」

果たしてこのような問題が試験に出てきたら、自分なら回答することができるだろうかと考えた場合、絶句したまま一文字も解答用紙に記述できないのではないかと思います。はたまた、教師としてこのような問題を解答できるよう生徒を導くことができるのか…どう教えることができるのか、大いに考えさせられるところです。

 

石川氏は著書の中で「2020年に廃止となる、大学入試センター試験センター試験。以降は「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」と呼ばれる新たな試験が実施されることとなる。この事実をなんとなくでも知っている人というのは、少なくないだろう。しかし、このセンター試験廃止の背景に、文科省による大規模な教育改革が存在することを認識している人は、教育関係者でない限りほとんどいない。

 

変わるのは入試だけではない。学校教育は、「知識の習得」を中心とした従来の学習から「知識の活用」を目指すスタイルへと大転換を迫られている。その際鍵を握るのは、教育の実践者である教師であることは間違いない。果たして、現在の教師たちに改革を実行し教育をアップデートすることは可能なのだろうか。」と述べています。

実はここ2〜3年、ここまで深く突っ込んだ問題までには至らないものの高校入試の問題も特に社会、国語において記述式の問題がとても多くなってきています。ただA=Bというように単純に答えを導ける問題ではなく、自分の考えをまとめて解答する問題が増えてきたということです。

定期試験の問題の出題の仕方もかなり以前とは違ってきていることを現場から感じます。息子の通う公立の中学校で、定期テストの出題形式が英語では「表現」「理解」「知識」に関する問題がそれぞれ均等割合出題されており、数学でも「知識・理解」「技能」「見方・考え方」に関する問題が同じ要領で出題されています。

文科省は1996年に学習指導要領の中で教育の新たな目的の一つとして掲げた【生きる力】を「変化の激しいこれからの社会を生きるために、確かな学力、豊かな心、健やかな体の知・徳・体をバランスよく育てることが大切です。」と解説しています。この【生きる力】を支える3要素のうちの「知」である「確かな学力」のことを「基礎的な知識・技能を習得し、それらを活用して、自ら考え、判断し、表現することにより、様々な問題に積極的に対応し、解決する力」としています。

 

中学校における定期テストの出題傾向は明らかにこの「確かな学力」を構成する「基礎的な知識・技能」→「自ら考え、判断し、表現する」→「様々な問題に積極的に対応し、解決する力」が身についているかを確認する意図からの出題になっています。

このように現場の中学では「確かな学力」が身についたかどうかの確認をしようとする意図があることが確かに見て取ることができるのですが、実際のテストを見てみると、本当に「確かな学力」のうちの「自ら考え、判断し、表現する」の「表現」になっているのかというと疑問が残ります。

 

と言うのも、この「自ら考え、判断し、表現する」の部分がテストや授業の中だけの話にとどまっているからです。定期テストに出題される程度の「表現」では、社会に出た時にも通用するような「自分の考えを表現する力」が身についたとは言えないのではないような気がします。

 

—「あなたはどう考えますか?」

これからの時代は、自分が学び、身につけたことに対して自分なりの考えや意見を持つことが、国際化する社会において主体的に人と関わることができる素地となります。このため、学ぶ時に大事にしないといけない問いは、「あなたはどう考えますか?」であり、その上で自分がどう考えるかを他の人にわかるように表現することが必要となってきています。

 

「あなたはどう考えますか?」の問いに対して、どう考えるかを他の人にわかるように表現する力がこれからの時代に必要とされるということは良くわかります。しかし果たして学校生活やクラスルーム授業の中だけでそのような能力(ちから)が養えるでしょうか。

 

「教育とは何?」(尾木直樹・茂木健一郎、中公新書ラクレ出版)で両氏は、「自分の言葉を持っているということ」を「創造性」であると言っています。そして、「自分の言葉を持っている人は、孤独な時間を持っていた人」だと言っています。

 

近頃は、ネットやゲームの時代と言われ、ネトゲ依存症の子が多いと言われています。学校ではまわりの子と群れ、ネットでも四六時中誰かと繋がっている状態だと思います。高校生のスマホ所持率はほぼほぼ100%なのではないでしょうか?少し前までは持っていない生徒が一握りくらいはいましたが、今では持ってないという話を全く聞きません。

 

我が家でも上のお兄ちゃんたちのときは、「携帯電話は贅沢品で働いていない子どもが持つのはおかしい」という親の価値観から携帯電話を持たせないでいました。ところが今では学校の連絡がLINEで送信され、部活の連絡などもLINEという時代になってきていて、今中2の息子が高校生になるときには携帯は持たせない主義とかネトゲ依存症になるのを恐れているからという列記とした理由があっても持たせない訳にはいかないというような時代になってきています。

 

少し前まで、この中学2年生には「調べ物がある」という大義名分のためにi-padにアクセスする権利が与えられていました。ところが、「調べ物がある」と言ってちょこちょこっと調べ物をした後、息子はYouTubeの動画(その頃ハマっていたのは「ジョジョの不思議な冒険」(少年ジャンプの連載漫画がアニメ化されたもの)を断りもなく見始め、延々と見続けるということをやっていました。

 

i-padは1日1時間程度と言う家のきまりがあったにも関わらず、あまりにもこの決まりごとを破り続けるので、堪忍袋の緒が切れた夫がゲームもi-padを取り上げて隠してしまいました。

そのおかげなのか、たまたまなのかは分かりませんが、息子が勉強や読書に対する興味関心が高まったのはこのころからです。そして息子はのちに「ゲームやi-padを取り上げてくれてありがとう」とわたしや夫にお礼を述べるまでに至っています。

 

おそらく、読書や自分の興味関心がそそられる学びをしていく中で「創造性」が育ってくるのではないかという期待を抱いています。

 

家庭の中でも「あなたはどう考える?」という質問をするように努めています。今の時代はスマホでなんでもググれる時代ですから、質問や疑問はすぐにグーグル先生が教えてくれます。抱いている疑問に対して即座に答えが得られる時代ではありますが、「あなたはどう考える?」という質問により、自分で考え、判断し、自分の言葉で表現できる練習は家庭の中でも訓練できますし、こういうことを学校の授業の中でも自然にやっていってもらいたいと思います。

8. 海外の教育モデル

 

「2020年からの教師問題」(石川一郎著、ベスト新書出版)で筆者は、「日本が取り入れるべき海外の教育モデル」の項で次のように述べています。「「指示されたことを実行する」人間の育成を目標としてきた今までの日本の教育は、正解のない『問い』を扱う授業が行われてこなかったのは事実です。」その上で、海外の例を挙げ、「正解のない『問い』を扱う授業」をどのように行って行くべきかを提言しています。

 

—アメリカ合衆国の「クリティカルシンキング」

アメリカ合衆国では「クリティカルシンキング」が重要視され、学校の授業にも常に取り上げられます。知識を習得するだけでなく、「もしあなただったらどうするか」と言う問いはアメリカに教科書には当たり前に出てきます。そして、この問いによる実践例は大統領選に顕著に現れます。大統領は日本の政治における首相よりも大きな権限を持っているため、その人物を選ぶことに失敗したら国民は大きなリスクを背負うことになります。

 

したがって、国民は一人一人が自らの考えを持って自分たちの代表を選びます。この時、国民は大統領候補者の政治方針をスピーチや報道などから調べ、情報を収集します。この情報発信の源を担ってるのはプロなので、どの候補者の言うことも説得力があるものです。候補者に対する誹謗中傷なども含めて、多くの情報が飛び交う中で、自分の考えを決めなければなりません。こういうところからもアメリカ社会では「自分の頭で考え、自分の意見を持つ」ことが重視され、そのために教育の中でもクリティカルシンキングが重要な力であると位置付けられています。

 

実際にアメリカの教科書では「もし、あなたならどのような政治的決断をしますか」というような「問い」がよく取り扱われるということです。しかし、このような「問い」は日本の教科書には登場しません。例えば社会の授業では、知識の習得に時間をとられてしまい、細かい史実に関する知識を習得することが求められることはあっても、その知識を活用して発展的な議論を展開するということはほとんどありません。「もしあなただったらどうするか」という「問い」が教科書に登場しなければやらないのではなく、日常の生活の中で日々の出来事に責任を持って主体的に決断するため、授業の中でクリティカルシンキングのトレーニングの場を増やしていくことは教師の課題であると言えます。

 

—フィンランド「個の創造力を伸ばす教育」

フィンランドには2つの象徴的な授業があります。一つは、習得した知識をそのままで終わらせずに、どのように活用するかをトレーニングします。授業で知識を習得したのち、教室の外に出て、実際に得た知識の通りになているかを確認し、またそれが他のものとどのようにつながっているかを考える体験学習が展開されます。

 

例えば、生物の授業で植物の生体を学んだら、実際に野外でその植物を観察したり、他の植物の生体と比較したりします。体験学習ののち、再び授業で学んだ植物の清田と野外で観察した他の植物の生体を比較し、同じ点と違う点を比較検討します。そういう体験を通して学んだことをフィードバックして深めます。

 

もう一つは、想像を誘う授業が展開されます。例えば、教師が「私たちの日常生活にはどのような機械があったらいいと思うか?」と言った「正解のない『問い』を生徒たちに与え、生徒たちは、グループになってアイデアを出し合います。このアイデアの出し合いの中で、生徒たちは他者との協働の中で想像する力がトレーニングされるようになっています。

 

日本でも「体験学習」や「自ら考える学習」は取り入れられてきています。しかし取り組みのための時間が定期テストや入試や学校行事などにより制限されてること、また日本の教師が「正解のない「問い」」に対して、生徒からのアイデアをどう扱っていいかを学ぶ機会がなかったことにより、生徒たちから出たアイデアを受け入れ、そこから十分に発展させる力が持てていないことに大きな課題が残っています。

 

—フランス「哲学の必要性」

フランスの教育において「正解のない『問い』」は、哲学、すなわち「生き方」そのものだと言えます。哲学とは、根本原理(=生きていく上での普遍の真理)を追求する学問です。フランスは「自由・平等・友愛」を大切にしている国で、個々が人生に対して「自分の考え」を持つことが強く求められています。

 

哲学が教育において重要視されていることが分かる例が、毎年6月に行われるバカロレアと呼ばれる大学入学資格を手に入れるための国家的統一試験に見られます。バカロレアの試験は5日間続きますが、初日の受験科目は、毎年、哲学と決まっており、全員が受験しなければならない科目です。

 

欧米で最も重視される「問い」は「WHO ARE YOU?」(あなたは何者であるか?)で、ギリシャの格言「汝自身を知れ」と同義とも言えるこの言葉は、自問自答を促す「問い」なのです。

 

「WHO ARE YOU?」に対する答えは、自分はどう生きてきたか、これからどう生きていくかという「自分の人生に対する考え」に他ならず、何かを決断するときの決め手になる「自分軸」を持つことが要求されている「問い」です。哲学は「自分軸」を考えるための学問です。

(以上、「2020年からの教師問題」(石川一郎著、ベスト新書)参照)

 

海外には見習うべきモデルが多くあります。特に最近注目されているのがフランスの教育のところで少し触れたバカロレアです。このバカロレアの考えは日本でも広く知れ渡り、思想を受け入れて実践している学校もあります。

—バカロレア

バカロレアとは「国際バカロレア」(=International Baccalaureate、略して「IB」と言われます)のことで、「世界共通の大学入試資格とそれにつながる小・中・高校生の教育プログラム」のことです。

IBO(国際バカロレア機構)のミッションステートメントは「多文化に対する理解と尊敬を通じて、平和でより良い世界の実現のために貢献する、探究心、知識、そして思いやりのある若者の育成を目的としています。」 「世界中の児童・生徒に対し、他の人たちをその違いと共に理解し、自分と異なる人々にもそれぞれ理があり得ることが分かる、行動的で、共感する心を持つ生涯学習者となるよう働きかけています。」となっています。

 

IBプログラムは人類共通の人間らしさと地球を共同で守る心を知り、平和でより良い世界を築くために貢献する、国際的な視野を持つ人間の育成を目指しており、目指す学習者像として、「探究する人」「心を開く人」「知識のある人」「思いやりのある人」「考える人」「挑戦する人」「コミュニケーションができる人」「バランスのとれた人」「信念のある人」「振り返りができる人」の10項目を示しています。

学習内容は「TOK(ティー・オー・ケー)」(=Theory Of Knowledge(知識の理論))で、教科の枠を超えて論理的思考力や批判的思考力(クリティカルシンキング)、コミュンケーション能力などを養うための授業です。知識とは何か、知識をどう獲得すれば良いのか、知識をどう使いこなすのか、といった課題について、自分たちで問題を設定し、自ら学習して行きます。このような独特なスタイルの授業によって、グローバルに活躍するための力を身につけていきます。

 

「国際バカロレア」がにわかに日本に知れ渡るようになってきた理由には、2013年6月に閣議決定された日本再興戦略の中で、「2018年には国際バカロレアDP認定校を200校まで増やす」という目標を明記したことにより、マスコミに広く取り上げられるようになってきたからです。

「IB」の思想を知るにつけ、この機構のミッションステートメント、プログラム、目指す学習者像、学習内容のそれぞれが、2020年教育改革で取り組もうとしている日本の将来の学校像や学習者像、そして学習内容であることが分かります。それほどまで、日本が国際場面において活躍できるグローバル人財を育てるためにこれまでの教育を抜本的に改革して行かなければならないという意気込みが感じられます。

 

2020年教育改革がなぜ起こるのか、そのためにどのような取り組みがされているかが分かってきましたが、明らかに問題や解決すべき課題も多く見えてきています。日本のよりよい未来のために、また未来を創る子供たちがグローバル化している社会で活躍できるようになるために、わたしたちは全力で環境を整えていく努力をしていかなくてはならないと感じています。