これまでの学校についての想い。
<Profile>
ほけんしつの先生
澤 栄美 氏昭和33年生まれ。国立熊本病院附属看護学校卒業・熊本大学養護教諭特別別科修了。昭和56年4月より38年間、熊本県及び熊本市の養護教諭として小中学校に勤務。熊本市養護教諭会会長等の役職を歴任し、平成31年3月定年退職。現在、熊本市市立学校養護教諭初任者研修指導講師。平成25年文部科学大臣優秀教職員表彰の他、教育、学校保健分野での表彰多数。
日本学校心理士会熊本支部副支部長、JKYBライフスキル教育研究会、日本協同教育学会所属。養護教諭一級・看護師の免許と学校心理士資格を有する。
著書に『養護教諭のためのパソコン活用法』大修館書店、熊本日日新聞「こころノート」連載(平成17年3月~令和2年2月・年4回)、「子どもが主役の保健授業」『健康教室』東山書房(平成30年4月~平成31年3月)、「協同学習で保健の授業作り」『健康教室2019年10月臨時増刊号』(編著(共著))等のほか、『小一教育技術』『小五・小六教育技術』小学館にて学級経営に関わる共同連載の中で、養護教諭の視点から学級経営へのヒントを執筆。
自分の経験を一般化してしまう大人たち


今までの学校って「正解を求められる」というのが大きかったと思うんです。
たまに幼稚園や小学校の保護者への講話をお願いされることがあるんですね。
その時に「何人かで話し合ってください。」というと、多くの方が
「どうしよう!どうしよう!」と。
話し合いの後、「自分があたるかもしれない…。」となるんです。
そんな時、私が「正解を言わないといけない、と思ってませんか?」
「そうやって育てられてきましたよね。」というと、
皆さん、深くうなずかれるんですよね。
だからそういった指導、
つまり「言われたことを言われた通りにするのがいい事だ。」というような指導は、
『いい子』と『悪い子』、『出来る子』と『出来ない子』を
結果的に分けてしまうと思うんです。
今までがそういう教育だったんだと思うんですね。

そうなると、苫野一徳先生がよく言われるのですが、
みんなそろえて同じことを同じペースでやる。
ゴールを一緒にする。
というやり方では、「落ちこぼれ」や「ふきこぼれ」が出てきます。
本当は与えられたゴールより先に行きたいのに行けないのを「ふきこぼれ」。
逆に、みんなについていけないのを「落ちこぼれ」。
先生たちは、決められたところまで期限内に
終わらせないといけないから、
補習なんかをやるんだけど、それでもできない子もいて
「この子はわかっていないけど、しょうがない」と、
その子のことが気になりながらも、
どうしてもおいていかないといけないような子って出てきますよね。
「ふきこぼれ」の⽅は逆で、もっと先に進めてあげたいけど、
「みんな平等に」ってことで、分かっててもみんなと同じようにやらせなければならない。

そして自分らしく生きられない。
自分らしく生きることを否定されるまではいかなくても、なんかこう…いづらい。
そういう子たちが出てくる。
そして私が書いている事例に書いてあるような、
子供たちが増えてくるのかなって思います。

さっきの順番が回ってきたらどうしようみたいなことは多々ありましたね。
「間違ったことをいったらどうしよう。」と常に思っているような子でした。
大人になってもそんな風に思って生きていました。
だからそういう人が教師であると、そういう子どもになってしまいますよね。
きっと同じように指導してしまうんでしょうね。

やはり、どうしても自分の経験を一般化して、
「これが正しい授業だ。」とか、
「これが良い形だから、これに近づけさせてあげないといけない。」といったことって多いと思うんですよ。
自分では良かれと思って、⼀⽣懸命指導しておられる。

最近の中学校の修学旅⾏は、先に修学旅⾏先に荷物を送るんですけど、
保健室である先⽣が、その⼦に荷物を送るよう説得されていいました。
「先生もね、どうしようかと思ったんだけど行ってみたらすごく楽しかったからあなたも楽しくなるってー!」みたいな。
私は「それが出来ないから、この人苦しんでるんでしょ。」と思いながら、聞いてたんですね。
でも本人はそうやって励まして、「きっと楽しくなるはずだから、行かせることがいい事だ。」って思っておっしゃってるんですよね。
つまり自分の経験を一般化して、どの子にも当てはめようとしたり、
こういう形がいい形だから、ここに近づけようとしたりしてしまうんです。
その子にとっては、それがいい形がどうかは分からないんですよ。
だから今までは、そういう「教師が正解と思うものに⼦どもを近づけようとする」教育であったかなと思いますね。

それが一番ですよね?

少なくとも否定したらダメだと思うんです。
その良かれと思っているということでいうと、
中学では特に、「このゴール(卒業)までにこの子をどっかに入れなきゃ。」みたいな感じです。
でもその子のペースでいったら、まだそこまで到達していないかもしれないですよね。
その辺の『パーソナルタイム』がリスペクトされてないって感じるんです。
でも、そっちの⽅がわかりやすいし、やりやすかったと思うんです。

やはり産業を活性化していくためには与えられたことをきちっとやっていく、
そういった人材を育てることが重要だったんです。
それで社会が発展してきたところもあるので、仕方のなかったところはある。
でも、そのやり方でおいていかれる子どもがいたり、
大事にされないといけないことが、後回しにされたりしてきてしまったこともあったのではないでしょうか。
これは否定できないと思いますけどね。


これからの学校への期待~思わぬ変化~


例えば、今回のインタビューのように、私の身の回りでもZoomなどを使ったミーティングや研修がたくさん行われています。
遠隔授業をやっているところもあります。
熊本市は恵まれていて、 昨年度から整備されたタブレットを使って、⼀⽅通⾏ではない双方向の授業をやっているところも多いです。
不登校の子どもが、遠隔授業には参加してるという事例も結構聞きます。

これまでの通常の形、つまり1つの教室に集まって同じように授業をする形に加え、
遠隔授業も取り⼊れるといったような、新しい形も模索され始めると思います。
そうなると、『不登校』という概念自体が変わるかもしれないし、
拙著でも取り上げた大人数が不得意な子どもも過ごしやすくなるかもしれないし…。
そんなふうに、これまでの仕組みでは、適応できなかった子どもや
「こうでなければならない」と拘っていた親や教師の感覚も違ってくるかもしれません。

授業の形等の変化以上に、子ども達をはじめ、親や教師の考え方や在り方が大きく変化しそうですね。
まとめ
今まで適応できなかった子たちは、ただ単に今までの仕組みに合っていなかっただけ。そしてその仕組みにはめ込もうとしていた周りの大人たちがいたから、苦しんでいた子も多かったのかもしれません。
第1弾はこちら→保健室の先生からのメッセージ。
第3弾はこちら→その子の幸せが、自分が思う幸せとは限らない。
第4弾はこちら→保健室の先生の仕事とは?
森田恵【元小学校教師】
子どもが好きで、彼らをより笑顔にしたいという思いを抱き、教員を目指す。しかし、挫折。あまりにも上手くいかないことばかりで退職を考えるも、奮闘し、次第に毎日が楽しく変化する。子ども達からも「先生大好き!」と言われる日々を送る。そんな小学校教員時代の経験をもとに、学校現場での悩みを持つ人に役立つことを伝える活動を行っている。現在は海外に移住し、子ども達に日本語を教えたり、日本の文化を伝えたりする活動を行っている。また現地校で日本の教育との違いを学び、それを日本の教育に活かす方法や感じたことを日々発信している。