「共育の杜」理事長

藤川 伸治

1957年生まれ。80年4月から2000年3月まで広島県公立中学校理科教員。在職中、休職して広島県教職員組合役員を務める。
その間に、95年8月、被爆50周年「1万人子ども平和集会」、96年から98年にかけてマレーシアなど東南アジアでの「原爆展」、97年稲垣吾郎主演「広島に原爆を落とす日(つかこうへい作)」広島上演、98年、広島県内の小中学生を対象とした「子どもの学習状況調査」などの企画を担当。
2000年4月から18年3月末まで日本教職員組合役員。その期間には、村上龍著「13歳のハローワーク」を全国の小中学校図書館に置く活動などを企画。公務員給与約5%引き下げ(05年)、公務員の労働基本権回復(07年~12年)、東日本大震災時を受けて実施された公務員給与10%削減、公務員の退職手当400万円引き下げ、自衛官を含む公務員の新しい年金制度の実現、非正規公務員の雇用安定・処遇改善に関わる法制度実現などの課題に関わり、人事院・厚労省・財務省・総務省・文科省との間で交渉・協議に携わる。
連合総合生活開発研究所(連合総研)が16年に公表した「日本における教職員の働き方・労働時間の実態に関する調査研究」の企画メンバー。藤川塾塾長として、子どもとのコミュニケーション力を高まる身体技法などを伝えている。著書に『みらいの教育~学校現場をブラックからワクワクへ変える』(共著、武久出版)、『熱血教員が過労死する本当の理由』(kindle)、『広島発 人権・平和教育』(共著、明石書店)、『これが平和学習だ』(共著、アドバンテージサーバー)
藤川 伸治
藤川塾塾長 
前連合総合生活開発研究所 主任研究員

「共育の杜」理事

中西 茂

1958年、三重生まれ。元読売新聞編集委員。2005年、長期連載「教育ルネサンス」を立ち上げるなど、記者生活の3分の2を教育記者として過ごし、2016年から現職。著書に『闇に向かった家族 父親はなぜ息子を殺したのか』(教育史料出版会)、『異端の系譜 慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス』(中公新書ラクレ)、『教育改革を問う キーパーソン7人と考える「最新論争点」』(教育開発研究所)、編著や共著に『教育ルネサンス 教師力』(中央公論新社)、『学力危機 北海道 教育で地域を守れ』(中西出版)、『もう一度考えたい「ゆとり教育」の意義』(悠光堂)などがある。
中西 茂
玉川大学教授
教育ジャーナリスト

「共育の杜」理事、発起人

佐々木 浩一

人間が知的、感情的、霊的に進化成長し、成幸するための統合モデル「RCFメソッド®」考案者。
「ママエンジェルス」オフィシャルメンタルトレーナー。半年で全国70以上のチーム立ち上げを行う。
1974年 静岡生まれ。現在、アメリカ オレゴン州ポートランド在住。学習効果を最大化する場作りの専門家。個人、関係性、集団や社会における変革のプロ。戦後の分断政策によって孤立社会を、地域社会から再構築するため、社会変革事業を多方面に展開している。
現在、「日本人を世界のリーダーに」をミッションに、人生を切り開く力が自分の中にあることを一人一人の人間が気づける次世代型の社会を目指し日々活動中。
佐々木 浩一
「RCFメソッド®︎」、「黄金習慣メソッド®︎」考案者

「共育の杜」理事

中楯 浩太

元公立小学校教師として「楽しい思い出と確かな自信を!」をモットーに19年間勤務。
長野県への移住を機に独立し、プロコーチとして活動。
「自分らしく幸せに生きられる社会」を実現したいという願いのもと「自分を大切にする教育から、他人(ひと)を大切にする社会を創る」ことをビジョンに掲げ、多方面で教育環境のアップデートに注力。
「子どもたち」を支える「先生たち」を支えるために、まずは、「先生」自身が「自分を大切にする」ために〔自分軸〕づくりプログラムを実施。その他、「共育の杜」の「ピア・サポートルーム」
「社会創発塾」の「萩・松下村塾プログラム」
「臨床心理士×元教師」の教師のメンタルサポートライブ
「Well-Being共育プログラム」
などの企画運営に携わる。
『この先を生む人』さくら社(2章に掲載)
『今すぐ受けたい授業』朝日新聞出版(社会科の学習で掲載)
『子供の思考をアクティブにする社会間の授業展開』東洋館出版(『世界の人々と共に生きる』担当)
『小五・小六 教育技術』小学館(2016~2017 教科特集社会科担当)1975年8月4日生まれ
(※吉田松陰と同じ誕生日に、ひそかに喜びを感じている)
中楯 浩太

〔自分軸〕メンタルコーチ
(一般社団法人)日本セルフエスティーム普及協会「自己肯定感」認定トレーナー
慶應義塾大学SFC研究所所員

企画運営マネージャー

四方 聖子

初めまして、共育の杜で企画運営マネージャーとして抜擢されました四方聖子です。
私のしくじりまくった生い立ちをお話させてください。
生まれは東京、何度か引越して、10歳の終わりに親の離婚により愛媛県の田舎町へ引越しました。
小学4年生という微妙な時期に環境が都市郊外から田舎の漁師町へと一変しました。
転校して最初は優しかったクラスの子も、 関東から四国にいきなり引越したので、 方言が分からず理解出来なくて返答できない。
そんな繰り返しで、どんどんいじめの対象となりました。
母子家庭で大変な中で、学校で心開けず何も話せないことは母親に話せませんでした。
そして、中学生になり生活も落ち着いて吹奏楽部に入り、少しずつ笑顔も増えていました。
尊敬できる音楽の先生がいて、その先生に3年間クラスを受け持ってもらい、高校も吹奏楽部に入る!先生になる!そんな夢を持っていました。
ですが、高校に入り、今までとは違う学校生活に慣れず、部活に明け暮れ勉強はあっという間に迷子になりました。
部活が順調だったなら、それでも良かったかと思います。
吹奏楽部に入って、どうしても技術的に乗り越えられない壁にぶち当たり毎日辛くて泣いていました。
顧問の先生には、社交性がなく表現出来ない私に
『お前は人間になれない妖怪人間みたいだな』
と言われ、益々自分の殻に閉じこもってしまいました。
県大会が終わり、自分のできなさ加減にどうしようもなくなって全部投げ出したくなって海で溺れてみようか?山で遭難しようか? 毎日、世界が終わればいいのに。
そんな悲しいことを考えたり、実行しかけていました。
そして、部活の負荷に耐えきれず、何よりも周りの子とどんどん差がついていることに情けなくなり部活をやめました。
しかし、その事に今度は負い目を感じて、部活の友達もいなくなり、学校での居場所がなくなりました。
毎日、辛いことには変わりなくて、学校を休みはじめたりしていました。
当時の私に母も先生も、頭を抱えていたことと思います。
できない、そんな自分はどうしようもない。
私が死んだ方がみんな幸せなんじゃないか。
本気でそう考えていました。
そんな中、共育の杜の発起人、佐々木浩一さんとの出会いがありました。
当時、佐々木さんのセミナーを携帯で見て、号泣していたのを記憶しています。
死にたい、そう思っていたけれど本当は誰よりも本気で生きたかったのだと。
自分らしく、本来の私で人と関わりたかったんだと佐々木さんと関わり、学んでいく中で気付きました。
高校卒業後、私は進学の道を進めませんでした。
浪人も、独学で、バイトを頑張りつつでしたが失敗。
社会にいきなり、道も分からず放りだされた気分でした。
そんな中励ましを貰っていたのが落語や、コントです。
学校でクラスと馴染めず、社交性が身につかないまま育ったので、人に何かを伝えることが苦手で、表現出来なくて苦しくて。
どうしようもなかったんです。
嬉しいのに、相手からはあまり嬉しいが伝わってなかったり。
怒ってないのに怒っているように伝わっていたり。
だから、自分の伝え方の克服のために元々好きなお笑い芸人さんを真似しようと動画を見たり、落語家さんの寄席に何度か行ってみたり。
その時の寄席の落語家さんの空気感の作り方がやばくて。
舞台には落語家さん一人しかいないのに、話の中にどんどん引きつけられる感覚があって、飽きませんでした。
そこでの話もそうだし伝え方がやはり芸人さんはすごいなと。
今回ご縁がありお笑い芸人のオシエルズさんとの企画を立てさせて頂き、とてもわくわくしていました。
オシエルズさんは、優しくてめちゃくちゃ面白いです。
誰も傷つけない笑いを学校で出前授業で巡回していたり、高校生対象で東京都教育委員会で講座をしていたり。
すごく素敵な活動をされていて、こんなお2人を皆に知ってほしいなと思っています。
この企画を通して、先生はじめ、子どもたちの爆笑できる日々が増えていけば嬉しいです。
最終的には、子どもたちひとりひとりの自発的な意見が学校で育っていき、みんなが夢を叶えられるようになれば良いなと思っています。
四方 聖子

 

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