私は教員時代、「遠慮」「謙遜」ばかりしていました。
そしてその「遠慮」「謙遜」を美徳としていました。無意識に、です。
私にとっての「遠慮」とは、正しい人間である人がすることであり、控えめであることこそが女性として良きことだと思い込んでいたのです。
そして「謙虚」は、すべきこと。
そうあるべきのもの。
つまり、謙虚であることは人として当たり前だと思っていました。
逆にその反対の自慢することは、良くないことだとも思っていたんです。
そしてその根底には、自慢をしたら嫌われる、嫌がられる、煙たがれる…だから謙虚でいなくてはならない。という信念を持っていたんですね。
こう書くと、すごい信念を持っていたなぁと驚きます。笑
(実際に、その言葉はどういう意味で使っているんだろう?と気になった時に自分に問うと、「そんな風に思っていたのか⁈」と自分でも驚く答えが返ってくることが良くあります。)
話は戻って、なぜ「遠慮」と「謙虚」って必要?という問題提起をしたのかについて話していきます。
遠慮と謙遜をしていた時、私は決して幸せではありませんでした。
というより、苦しかったんです。
それはつまり、「我慢」をしていたからだし、自分を押さえ込んでいたから、です。
遠慮、謙虚は常に相手が存在します。
相手の目を気にしていたんです。
遠慮をすれば、相手からよく思われる。
謙虚でいれば、いい人でいられる。 もちろん、当時はそのような意識は全くありませんでした。
でも今は思います。
遠慮している限り、謙虚でいる限り、そこに本音は含まれません。
相手はいつまでたっても私のことがわからないのです。
私が無理をして遠慮していたから、
私が欲しいものが相手には伝わらない。
私がどうしたいのかは相手は分からない。
私がいつまでも本音を隠してるから、
人間関係はいつまでも深まっていかず、表面的な付き合いしかできない。
相手のためと言っていたけど、決してそれは相手のためではなく、良い人に思われたかったり、嫌われたくないというメリットを自分で取っていたんです。
この部分こそ、私が認められなかったところです。
そんなことはない!良い人になんて思われたくない!私は本音で向き合いたいんだ!
と言いながら、
根底ではメリットを取っていたということを認めてしまったら、本当に楽になりました。
さらに、そこから不思議と人間関係がスムーズに、そして楽になっていったのは言うまでもありません。
本音で向き合うからこそ、そこに望む人間関係が生まれるのは、誰でも分かりますよね。
だから私は「遠慮」「謙遜」を少しずつやめていきました。
誰かが褒めてくれたら、「ありがとう」という。
誰かが何かをくれたら、欲しければ素直に頂く。欲しくないものであれば、丁寧にお断りする。
子どもでも出来るような当たり前なことを、丁寧に丁寧にやっていきました。
そして、当時は分からなくなってしまった自分の本音をやっと少しずつ見つけていくことが出来たんです。
それをやっていったから、
人間関係で悩んでいた私が、表面的にではなく、望むような関係性を結んでいけるようになっていきました。
信頼される人は、本音で向き合ってくれます。
そこには、「嫌われるから」「いい人でいたいから」
というようなものはありません。
また、「嫌な思いをさせたくないから」という理由で遠慮や謙遜をする人もいるかと思います。
でも果たしてそれは本音でしょうか?
もちろん大人だから、時と場合で相手によって使い分けることも必要かと思います。
特にそんなに深い関係性を築く必要がないという時は遠慮して、謙遜して、謙虚でいてもいいのかもしれません。
「嫌な思いをさせたくない」というのは、その根底に「嫌われたくない」「嫌な気分になりたくない」という想いがあったりします。
こんな風に自分のことをよく見ていくと、何が必要で何がいらないのかを判断することができます。
あなたはどちらを選びますか?
何を選ぶのもそれぞれの選択です。
私は本音で生きることを選びました。
私は深く人と繋がりたいと思ったから、遠慮と謙遜をで手放していきました。
あなたにとって必要なもの、不必要なものを
丁寧に見極めてみてください。
意外と後回しにしがちなことですが、この作業が人生を面白くしてくれたりするので、
試してみてください。